
豊前国
小倉祗園八坂神社
「小倉のぎおんさん」と親しみを込めて呼称され、七月に斎行される例大祭(小倉ぎおんまつり)は「太鼓の祗園」としてその名を馳せています。
関ヶ原の合戦で徳川家康に従い、多大な勲功のあった細川越中守忠興公は慶長六年(1601年)に豊前一国と豊後二郡の合わせて三十九万九千石の大大名として入国されました。その細川公が元和二年の秋、勝山城(小倉城)の西方にある愛宕山にて鷹狩りの時、山の頂上で一基の苔むした石の祠があるのに気づき、中を覗こうと開けようとして群れ出た蜂に刺されたのです。公は痛みに苦しみ、家臣たちはあわてて城につれ帰り、御殿医師の手厚い看護を受けましたが失明同然となったのです。
公は深く恐れ入り、家臣に命じ祠の由緒(いわれ)を調べさせたところ、須佐之男命を祀ってあることがわかり、生国京都の祇園社と同じ御祭神なので改めて城北の土地(鋳物師町)に神殿を造営しました。南殿に愛宕山(不動山)の祇園社を遷宮し、篠崎八幡宮の宮司川江左衛門橘種茂を大宮司として奉職させ、通称「口の宮」と言いました。対し北殿は当時三本松に鎮祭されていた祇園社を併祗申し上げ、蒲生八幡の宮司高山孫太夫定直を大宮司として奉職させ、通称「奥の宮」と称しました。元和三年(1617年)二月起工し、同九月竣工、同月十一日に眼病平癒の「願解」の祭典を盛大に催しました。この時の祭典は主として「能」を奉祭したので秋祭り「神事能」として大正末期頃まで継続されました。
小倉祇園社の現在の正しい名称は「八坂神社」です。元和三年創設当時は小倉祇園社感応院と称し、寛永九年十二月(1632年)小笠原忠真公が藩主となってからもそのまま小倉城の守護神として尊崇され、あわせて領内の総鎮守として明治四年(1871年)廃藩置県の新制度施行まで続きました。
また、有栖川宮熾仁親王が、初代福岡県令として赴任の途中、参拝され京都の八坂神社と御祭神が同じ須佐之男命であるところから「八坂神社」の神号を親しく書き与えられてられたと言うことです。御本社の幣殿と正門の大鳥居に掲げられている神額の文字は有栖川宮様の御親筆の写しを刻んだものです。
昭和九年七月八日、鋳物師町より勝山城北の丸(二の丸)跡に遷宮せられ今日に至っています。
御祭神
八坂神社の主祭神はスサノオノミコトという神様です。素戔嗚尊、須佐之男命、須佐乃袁尊などいろいろな表記がありますが読み方は同じです。
須佐之男命
大国主命
少名比古那命、他に十柱をお祀りしています。
神々の御神徳は厄除・疫病退散・商売繁盛・家内安全・産業隆昌・縁結び・縁切り・陸海空交通安全・芸能上達・五穀豊穣・医療医薬・温泉の神・学問・酒造りと広範囲に渡ります。
乱暴者の神様から庶民の英雄へ
(天岩戸のお話)高天原(神様の住む世界)に住んでいたスサノオ様は、アマテラス様(太陽の神様)の田んぼを壊す。神殿を汚す、馬の皮を剥いで機織屋に投げ込み、天衣織女を死に至らしめるなど、数々の乱暴を繰り返しました。怒ったアマテラス様は、洞窟の中に籠ってしまい、太陽の神様を失った高天原は闇となり禍が蔓延したのです。困り果てた神様たちは集まってどうしたらよいかを話し合いました。そこでオモイカネノ神が思いつきました。まずお祭りの準備をしてニワトリと集め鳴かせました。次にアメノウズメノ命という踊りの上手な神様に岩戸の前で踊ってもらいました。その踊りがあまりにも面白かったので、神様たちは手を叩いたり、笑ったりして、お祭り騒ぎとなりました。あまりにも賑やかなのでアマテラス様は不思議に思い、外がどうしても見たくなり少し岩戸を開きました。真っ暗だった高天原はたちまち明るくなってもとの平和な高天原に戻りました。
(ヤマタノオロチのお話)人間界へ降りたスサノオ様は出雲の国で嘆き悲しむ老夫婦とその娘に出会いました。悲しむ訳を尋ねると、老夫婦には、もともと8人の娘がいましたが、大蛇が毎年襲ってきて、娘を食ってしまったと言うのです。話を聞いたスサノオ様は大蛇を退治し、その尾から出てきた刀をアマテラス様へ献上したのです。スサノオ様は助けた娘(クシナダヒメ)と結婚し出雲の須賀の地へ留まったそうです。
縁起


